窓を叩く雨の音でミリアリアは目を覚した。
雨かぁ・・・。
時計を見れば間もなく午後6時になろうとしている。
今日でもう1週間経つのね・・・。
傍らのカレンダーの日付はあのストーカーに襲われた日から既に7日も経過していた。
さして広くもない部屋をぐるりと見渡せば、部屋の主はまだ帰宅してはいないようだ。
ベッドから身を起こし、雨のせいですっかり暗くなった部屋のブラインドを下ろす。代わりにベッドの脇に置いてあるアンテークなランプに灯をともすと、趣味の良い家具に自分の影が浮かび上がる。
さすがに1週間も身体を休めれば体調の悪さも改善され、もう起き上がっても大丈夫だろうと素人ながらも判断できる。
体調を崩していたためとはいえど1週間も入浴していない身体は不快そのものだ。先ずはシャワーを浴びて着替えたい。
部屋の主には悪いと思いつつも、これ幸いとミリアリアはクローゼットからタオルとバスローブを拝借して窓のない浴室へと向かう。
シャワーコックをひねれば温かい湯が体中に流れ落ち、ペパーミントの香りもほのかなボディシャンプーが汚れた髪と身体をすっきりと洗い流してくれた。
もういいかげん帰らなくっちゃ・・・。
そう思いながらも妙に居心地の良いこの部屋の雰囲気が今日までミリアリアを引き止めていた。
だが・・・この部屋の主はまだ18歳といえ男。しかも自分の教え子なのだ。発覚すれば一大スキャンダルになって彼女と教え子の双方が非難されるに違いない。
(・・・・・・)
鬱々とした気分がミリアリアを不快にさせてゆく。ふと傍らの湯気で曇った鏡にそっと、指で自分の名前を書いてみる。
ミリアリア・ハウ
何の変哲もない名前。だが、このあとに「先生」という言葉が付くと世界は途端にその色を変える。
Red piano wire 4
シャワーを浴びてさっぱりとした身体にバスローブを纏い、ミリアリアはバスルームの扉を開けた。
えーと、着替え着替え・・・んー、何処にしまってあるんだろう。
バスローブ1枚だけという他人が見たら眉を顰めるような格好のままでミリアリアはどこかにあるはずの自分の着替えを探し始めた。
狭い部屋の中だから自分の着替えなど簡単に見つかるだろうと思っていたが、予想に反してミリアリアの着替えはおろか、肌着の1枚ですら見当たらない。
早くしないとあいつが帰ってきちゃうじゃない。
いかに教え子とはいっても部屋の主は男。こんなバスローブだけの姿なんてとてもじゃないが見せられない。
しかし焦れば焦るほど探し物は見つからない。そうこうしているうちに鍵をあけてドアノブを回す音が聞こえた。
ってやだっ!もう帰ってきたの!
部屋の主がどうやら帰ってきたようだ。
慌ててバスルームに戻ろうとしたが、目聡い部屋の主がそれを見逃すわけがない。
「あーあ、ミリアリアちゃん起き上がって良いなんて誰も許可していないでしょ?」
そう言って玄関口に立つ教え子の姿は見るも無残にずぶ濡れで、それでいて妙に艶かしい。なにしろ濡れたYシャツが素肌に張り付いて胸板がくっきりと透けて見えるものだからミリアリアの表情にもつい朱が走る。
「ひでぇよなぁ!家まであと100メートルっつー位のところでいきなりコレだぜ?お?ミリアリアちゃんタオルなんていいもん持ってるじゃない?ちょっとそれオレに貸して」
色っぽい教え子は靴を乱暴に脱ぎ捨てズカズカとミリアリアの側にやってきた。そして長い腕を伸ばしてミリアリアからバスタオルを奪おうとする。
「だっ、だめっ!これは私が使ったやつだから新しいの持ってくるわよっ」
必死でタオルを握り締めていたミリアリアだが、彼女よりも数段運動神経が良いと思われる教え子はあっさりとタオルを奪い取り自らの頭を拭きあげる。
(もう・・・!)
いつもはオールバックに撫で付けている金髪もすっかり肩に落ちてしまった教え子の姿にミリアリアはひとつ溜息をついた。
そんなミリアリアを横目に部屋の主である教え子は、薄っぺらな鞄とどこぞで調達してきたのか食材がぎっしり詰った買い物袋を玄関に投げ出したまま、身体に張り付いたYシャツを脱ぐ。
「ちょっと!こんなところで脱がないでさっさとバスルームに行きなさいよっ!」
既に成人男性の体格を持つ教え子の姿にミリアリアは目を背けた。そして自分がまだバスローブ1枚の格好であったことを思い出すと、
「ねぇ、私の着替えってどこにあるの?さっきから探しているんだけれど・・・」
先ほどの声をは違い、今度はしんみりと項垂れた声で部屋の主に尋ねてみた。それに対して部屋の主は、
「えーっとさぁ?ミリアリアちゃん。言いたいことがたくさんあるんだけれどさ、とりあえず先にシャワー浴びてくるからちょっと待ってて」
と、ミリアリアの質問には答えずに「ミリアリアちゃん、覗かないでね?」などと言い残してバスルームへと入っていった。
ミリアリアは再び溜息をつくと玄関に放り出したままの鞄や食材を片付け始める。次々手にする食材を見つめ、ミリアリアは「そういえばこのひと・・・料理上手いのよね・・・」と、ここ1週間の間に出されていた食事の献立を思い出していた。病人食なのだろうが、どれもさっぱりと食べ易くて美味しいものであった。包丁を持つ手がサマになっているのはもう長いこと彼がひとりで生活をしていることを想像するに充分であった。
次に傍らに置いてあった布地を手にとって濡れた鞄を拭き上げる。薄っぺらいそれは多分教科書など入ってはいないのだろうが、それでもミリアリアは懸命に拭いた。
「中は大丈夫だったのかしら」
人の鞄を開けるなんて悪いことだとは思ったのだが、ミリアリアはそっと鞄の留め金を外して中を覘いた。
「Dearka Elthman」
鞄の中を覘いた途端目に飛び込んできたそれは教え子の名前。
「ディアッカ・エルスマン・・・」
ミリアリアは無意識のうちに何度も声に出して名前を呟く。
───どしたの?オレの名前連呼しちゃって。もしかして惚れた?
その声にギョッとしてミリアリアが振り向くと、すぐ背後にディアッカが中腰でミリアリアの仕草を見つめていた。
「あんたは・・・どうして物音も立てずに背後にまわるのっ!心臓に悪いからそれはやめてって・・・」
「別にそうは言ってないだろ?ミリアリアちゃんは」
クククと人の悪い笑いを口の端に残しディアッカと呼ばれた部屋の主は濡れた髪をかき上げた。
「とっ、ところで早く何か着てくれない!あんたに風邪ひかれたら私どうしたらいいか解らないからっ!」
ミリアリアが慌てるも道理で、なんとディアッカは腰にバスタオルを巻きつけたままの姿であった。こんな格好で目の前をうろつかれたらミリアリアでなくとも目のやり場に困ってしまう。
だがディアッカは別段慌てた様子もなく、もう1枚のタオルで身体を拭きながら、「んーとですね?ミリアリアちゃん。オレのローブは今あんたが着てるでしょ?」と、笑ってミリアリアの方を向いた。
「ご、ごめんなさいっ!すぐ返すから・・・!ねぇだから私の着替えはどこにあるの!」
慌てふためいてミリアリアはバスローブを脱ごうとしたものの、この下には何も着けていないのだ。
そんなミリアリアのことが余程おもしろいらしく、ディアッカは笑い声を堪えている。
「・・・申し訳ないんだけどさ?ここんところ雨続きだっただろう?ミリアリアちゃんの着替えは病院のラミアス先生が持って帰って洗ってくれているんだよね。だってさ?オレの汚れ物と一所に洗濯されるのってさすがに嫌でしょ?ミリアリアちゃんは」
「・・・それは」・・・ディアッカに言われるまでもなくそれは勘弁して欲しい。
「さっき脱いだ下着、オレのものと一所でいいなら洗濯してあげるけれど、どう?」
一段と人の悪い笑い顔を見せてディアッカはミリアリアに耳打ちした。
「かわいいペール・ブルーのパンティとブラジャーがね?脱衣所に脱ぎっぱなしだったんだよなぁ〜」
「・・・あっ!」
それを聞いた途端ミリアリアは脱兎の如く脱衣所に向かって走り出した。しかし・・・そこでミリアリアが目にしたものはゴウンと音を立てて動くばかりの洗濯機。ミリアリアは無情に動く洗濯機をただ呆然と見つめる。
「ごめんね〜!間違って一所に洗濯機に入れちゃったのオレ。だから乾くまでそのローブを羽織っていてね」
「あんた・・・最初からそのつもりで・・・」
「やだなぁミリアリアちゃんってば、オレはそこまで意地悪じゃないっつーの!」
ディアッカはそう言ってミリアリアの針のような鋭い視線を受け止めた。しかもクククと笑いながら。
「とにかくもう入浴も出来るくらい元気になったようだからさ?今からオレ達の今後について相談しようね」
冷蔵庫から缶ビールを取り出してディアッカはプシュッとプルタブを引くと、さも美味しそうに喉を鳴らして一気にそれを飲み干してそう言った。
「オレ達の今後って・・・そんなの決まりきってるじゃないの。私はもう大丈夫だからここを出て行く・・・ただそれだけのことだわ」
何をバカなこと・・・と、ミリアリアは怪訝な面持ちでディアッカの顔を注視した。
「・・・ふうん・・・あのストーカーがつけ狙っているアパートにまた戻ってひとりで暮らすの?今更ミリアリアちゃんにそれが出来るの?」
「・・・・・・」
ディアッカの言葉にミリアリアは色を失う。
「またつけ狙われて・・・今度こそ待っているのは・・・解るだろ?」
「・・・・・・・・それは」
そう、きっとまた同じようなことが起こるに違いない。この間は運良く通りかかったディアッカに助けられたが、そんな都合のいいことは二度と無いのだ。
「ミリアリアちゃんがアカデミーに行くのはあとどれ位あるの?」
「8月31日までよ。代理教諭の契約は9月30日までだったんだけれど、産休の先生が予定を早めて9月から復帰するのだそうよ」
「・・・ってことはあとひと月半かぁ。でもすぐに夏休みだから実際はもっと短いわけね」
「・・・ええ、そうね」
その答えにディアッカはしばらく何かを考えていたが、突然口元をニヤリと引き攣らせてミリアリアの頬にてのひらを当てた。
「じゃぁさ?ここに引っ越してくるってのはどう?このマンションってセキュリティは最高のクラスだし、夜景も綺麗な一等地の物件だぜ?」
「何バカなこと言ってるのよ!金持ちの御曹司のあんたとね?私は全然違うのよ!こんな高級マンションに住めるようなお金なんて持ってないの!」
ディアッカの言葉に怒り雑じりの言葉を返してミリアリアは自分をせせら笑った。こんな苦労知らずのおぼっちゃまの言うことに頷いていたらとんでもないことになってしまう。
ミリアリアは孤児だった。彼女の身元を保証してくれるような連帯保証人など存在しないし、知り合いもいない。苦学の末に奨学金で大学に通った身の上である。そんな彼女が見るからに高級そうなこのマンションになど住めるはずはなかった。
「・・・問題ないよ。だってこのマンションの持ち主は他ならぬオレだもん」
「オレだもんって・・・この部屋はあんたの持ち物なの!?」
信じられないようなディアッカの言葉。てっきり親が所有している部屋だとミリアリアは思っていたのだ。しかし不動産を持つ高校生ていったい・・・。
「正しくはね、部屋じゃなくて建物一式ぜーんぶがオレの名義なの。遺産の生前分与ってやつでね、オレはこのマンションのオーナーなんだよ」
「・・・嘘」
ミリアリアは空いた口が塞がらない。これだけの物件なら賃貸でも20万以上するのではないか。
「ちょうどこの部屋の真下が空いてるんだ。建物って人が住まなくなると傷みが早くて正直困るんだよね。だからどう?部屋を管理してくれるって名目でさ、下の部屋に住んでもらえないかなミリアリアちゃん」
「でも・・・あんたは生徒で私は先生!部屋は違えど同じマンションに住んでいるなんて発覚したらどうなると思ってるの!」
「だったらあのアパートは家具だけこっちに運んでおいて、産休代理が終わるまで借りておけばいいでしょう?ミリアリアちゃんの契約が済んだら正式に引っ越してくればオールオッケーってもんじゃない?」
「冗談じゃないわディアッカっ!だったら違うアパートを探すまでよ」
「あーもうっ!家主さんがロハで貸してやるって言ってるんだから素直にありがとって言えばいいでしょ?」
「だから・・・!」
「はい、これで決まりね。ミリアリアちゃんの家具一式は明日に業者が運んでくれるよう手配済みだから何も心配しなくていいからね」
「そんな・・・!あんたそれって勝手過ぎるわ!」
「・・・そう?あ、だったらさ?家賃の代わりに朝メシと晩メシ作ってよ。これならいいでしょ?」
「ちっとも良くないっ!第一・・・あんたって料理得意じゃないの!あんた以上の献立なんて私は用意なんかできないわよ」
凄い剣幕で捲くしたてるミリアリアをディアッカは・・・優しく見つめて言葉を紡いだ。
「わからないの?ミリアリアちゃん。食事って自分で用意するよりもね、誰かに作ってもらったものの方がずっと美味しく感じるんだよ」
「それは・・・」
そうそれはミリアリアにもよく解った。自分は孤児だったから自分のことは自分でやるしかなかった。無論友達も、かつては恋人と呼べた相手もいたけれど結局最後はひとりになるのが常だった。
「今日のところはオレが晩メシつくるからミリアリアちゃんは休んでていいよ」
ディアッカは素早く身支度をすると、はな歌雑じりでキッチンに立つ。
雨はますます強くなってゆく。これでは外にも出られない。ミリアリアは諦めてベッドサイドに腰を下ろし、ただ黙って窓の外をじっと眺めた。
窓ガラスを伝う雨の雫が縦縞模様を作り出す。次から次へと。
その模様がまるで鉄格子のように見える。
「何見てんのミリアリアちゃん。雨なんか見てないでこっちに来て座ったら?」
「あ・・・」
いつの間にか自分の側に来ていたディアッカにミリアリアは妙な胸騒ぎを感じた。だが、それは疑問となる前にミリアリアの脳裏から霞の如く消えていった。
このときディアッカに感じた胸騒ぎを後々までミリアリアが覚えていたら・・・
あるいはもっと違う未来が彼女に開けていたかのもしれなかった。
(2007.8.9) 空
※何度も申し上げますがー・・・このディアッカさんは怖い人でございます。
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