───まただ・・・。

ミリアリアは立ち止まりそっと後ろを振り返る。
すっかり陽も落ちた薄暗い路地をひとり歩く度に感じる誰かの視線。そして足音までがコツコツと響く。
怖くなって走り出すと、背後の足音も早くなる。そんな日が既にひと月以上続いていた。
急いでアパートに帰り、灯りも点けずにカーテンの隙間から外の様子を窺えば暗闇の中に誰かが佇んでいる。相手がどんなに気配を殺していてもそれは判った。

「ストーカー・・・?」

だが、そう決め付けるには決定打に欠ける。
相手は追いかけてくるだけでそれ以上のことはしないのだ。実害が無い限り警察もきっとミリアリアの訴えなど相手にしてはくれないだろう。
けれどもこの行為が今以上にエスカレートしてきたら自分はいったいどうすればいい?
日々募ってゆく恐怖心はミリアリアの華奢な身体から確実に体力を奪っていった。





Red piano wire 3






ある日の放課後、誰もいない教室でひとりミリアリアは窓から外を眺めていた。
ストーカーらしき者の存在が日毎に確かになりつつある中、ずっと眠れない夜が続いている。
今日も不審な人物は自分のあとをつけてくるのだろうか・・・。恐怖と不安が入り混じった感情はそのまま体調にも影響する。本当はもうこうして立っているだけでもかなり辛い。
ミリアリアは溜息を吐いて目を閉じる。すると不意に背後の空気が微妙に揺らぎ、声を伝えた。

「ミリアリアセンセ?ちゃんと眠ってるの?すごく顔色が悪いって自覚はある?」

耳元を掠める独特の声にミリアリアの身体は緊張する。

「ディアッカ・エルスマン・・・いつここに入って来たの・・・」

教室の戸は閉めてあった筈だ。開いた気配なんてなかったのにどうして・・・。
そんなミリアリアの驚きをよそにディアッカはクスクスと笑う。そしてミリアリアの額にそっと自らのてのひらを当てた。

「無理しちゃって。やっぱり熱があるんじゃない?」

額にあてがわれたてのひらを素早く払い除けてミリアリアはディアッカを睨み、ついっと顔を逸らして言った。

「あんたに係わるとロクなことがないわ!用が無いならこっちに来ないで!」

きつく言い放ちミリアリアは放課後の教室から出て行こうとしたのだが、ディアッカは反射的にミリアリアの細い腕を引いた。

「あーもうそんな冷たいコト言わなくてもいいじゃない?こうしてちゃんと登校してるでしょ?オレ。それにミリアリアセンセが具合悪そうでさー心配になって戻ってきたんだからもう少し優しくしてくれてもいいんじゃないの?」

「心配なんて余計なお世話よ。いい?私は先生であんたは生徒!こんなところ誰かに見られたら大問題になるでしょう!」

「・・・噂になると困っちゃうの?センセーはさ?」

「当たり前でしょう!私は教師なのよ!立場ってものがあるわ。だいたいあんたいつここに来たの?気配すら感じさせないなんて・・・まるで・・・」

「・・・まるで?」

ディアッカはミリアリアの言葉の端をとると、彼女の顔をじっと見つめた。そして次の言葉を待っている。しかし、ミリアリアはそのまま俯くと、もう何も話そうとはしなかった。

「ミリアリアセンセ?」

何時に無く真顔でディアッカはミリアリアに返事を促した。だがミリアリアはそっとディアッカの腕を外し、足早に彼の元から遠ざかると振り向きもせずに教室のドアに手を掛けた。

「何でもないからあなたも早く下校しなさい」

そう言ってミリアリアはひとり教室を出て行った。







********







───まだ追いかけてきてる・・・。

同日、すっかり暗くなった狭い路地をミリアリアは懸命に走っていた。
大通りに出ようとするのだが、どういうわけか走れば走るほど細い路地に追い込まれる。
それもそのはず、ミリアリアを追いかけている足音はひとりだけではなく、他に何人かいるからだ。
そのうちのひとりがミリアリアの行く先々に早回りをして立ち塞がる。結果ミリアリアは違う道を選ぶしかない。そうやってどんどん人気のない場所に追い込まれてしまっていた。

「あっ!」

ミリアリアは慌てた。角を曲がった途端視界に映ったのは大きな石の壁ばかりで、左右を見渡せど、もうどこにも行き場はない。

「行き止まりだなんてっ!」

ミリアリアは元来た道を戻ろうとしたが時既に遅く、目の前には『いかにも』といった風体の3人の若い男が道を塞いでいた。

「お嬢さ〜ん♪そんな逃げなくてもいいじゃんよ?どう、どっか遊びに行かねぇ?つきあってくれたら後でちゃんとおうちまで帰してやるよ」

背に当たる冷たい石塀の感触に絶望しながらもミリアリアは強く前を見据えている。ここで泣いたりしたら負けだ。きっとどこかに隙があるだろうと周辺を見回したが3人の男を相手に立ち回りができる程状況は甘いものではない。それにここは民家からかなり離れているらしく、風に吹かれた樹木がザワザワと音をたてるのみで他に物音は聞こえない。

「ほら!早く行こうよぉ〜!」

男のひとりが遂にミリアリアの腕を掴んだ。ニヤニヤと笑いながらそのまま力任せに肩を抱く。

「やめてよ!人を呼ぶわよっ!」

必死で気を張るが、そんな強がりがまかり通る筈もなく、3人の男は引きずるようにミリアリアを連れて行こうとした。

「やだっ!やめて!放してよっ!」

ミリアリアは必死でもがくのだが、そんなものは微々たる抵抗に過ぎなかった。
このまま男たちに連れて行かれればどうなるのか、そんなことは百も承知だ。抵抗したはずみでブラウスのボタンが飛び、ミリアリアの白い胸元が露わになるのを目にした男たちは更に下卑た笑いを交わすと、「どうせ誰も来ないならここでもいっか〜?」とミリアリアを強引に押し倒し、腹の上に馬乗りになった。ブラウスが引き裂かれる音と大きな手で口元を押さえられた自分にミリアリアの瞳から大粒の涙が溢れ出す。



突如暗がりの中から声が響く。

「えーっと、すんまセンお兄サンがた。そこの女オレの彼女なんだけどさ?放してもらってもいい?」

まるでこれから温泉にでも入るかようなのんびりとした口調だ。第一緊張感というものがない。

「うっせーよ!こっちはオタノシミの真っ最中なんだよ!テメェこそとっとと消えなっ!」

緊張感の欠片もない間の抜けた声に向かって男のひとりが飛び掛った、だが、あっさりと倒され男は呻き声を上げながらその場で気を失ってしまった。

「ほらほら。そんな強くもないくせに無理するっつーのはよくないよねぇ」

暗がりの中声の主はパンパンと埃を叩き落しながらミリアリア達の側まで近づいてきた。

「て・・・めぇよくも!」

ミリアリアを組み敷いていた男が立ち上がり、声の主に歯向かうべく拳を振り上げ・・・ようとしたのだが、

「待て!こいつは・・・」

もうひとりの男が大声を上げて仲間を止める。

「あん〜?なんだよ止めんじゃねーよ!」

声の主に拳を振り上げようとした男が不満げに仲間に文句を言う。

「だから待てって言ってんだよっ!こいつはあの(・・)ディアッカ・エルスマンじゃねぇかっ!」

「えっ?!」

その名を聞いて拳を振り上げようとした男の手もそれきり止まった。
暗がりの中、目を凝らせば僅かな月明かりがそこに立っている男の姿を浮かばせる。

「そんな・・・バカなっ!」

だが、そこに立っていたのは紛れもなくディアッカ・エルスマンそのひとであった。






**********






「あーあ、ミリアリアセンセーボロボロっつーかすっごくそそられる素敵な格好してるじゃん?」

ミリアリアを襲った男達がいなくなった後、ディアッカはクスクス笑みを洩らしながらミリアリアをそっと抱き起こした。

「あんた・・・どうしてここに・・・」

まだ上手く状況が飲み込めないミリアリアはただただディアッカの顔を凝視するばかりだ。

「センセーの様子が変だったから後をつけてきたの。ま、この場合大正解だったってことだよね」

そう言うとディアッカは自分が着ていたYシャツを脱ぎ、ミリアリアの肩にふわりと掛けてやった。

「タクシー呼ぶから家まで送るけど・・・センセーん()ってどっちの方角?」

「・・・・・・」

何時になく穏やかなディアッカの声にミリアリアの緊張は一気に緩んでしまったのだろう。大きな瞳からまた大粒の涙がいく筋も零れ落ちてそれはミリアリアの頬に埃塗れの縞模様を作った。こうしてミリアリアを見れば、彼女はただ可憐な少女のようだ。

「・・・なんかこのままひとりにするのも危なそうだね。その服もなんとかしないといけないしね。じゃ、ひとまずオレの家に行く?ここからだとそんなに遠くもないからさ」

ディアッカはミリアリアのシャツのボタンをひとつひとつかけてやると頬の涙もそっと拭ってやった。

「歩ける?」

ディアッカの言葉にコクリと頷くと、ミリアリアは力なくゆっくりと立ち上がった。だがあまりにも頼りないその姿を見てディアッカはミリアリアに背中を向け、つとその場にしゃがみこむ。

「なんか危なっかしいねぇ。ほら、おぶってやるから大人しく言う事聞いてよねセンセ」

ディアッカに言われるがまま、彼の背中にミリアリアは身体を預け、体重を乗せた。その様子に今度はディアッカが面食らう。

「ずい分今日は素直なんじゃないの・・・ミリアリアちゃん」

「・・・先生って呼びなさい」

「はいはい。ミリアリアセンセ」

「はい、は・・・一度で充分よ」

「はい、センセ」

時々雲の切れ間から顔を覗かせる月明かりだけを頼りにディアッカはミリアリアを背負って歩き出した。

「ひっく・・・ひ・・・」

ミリアリアはようやく声を上げて泣いた。男に襲われかけたのだから無理もない。

「センセ疲れたでしょ?このまま寝ちゃってもいいよ。着いたら起こしてあげるから」

幼な子をあやすかのようにディアッカは優しい言葉をかける。

「・・・生徒におんぶされたまま寝ちゃうわけにはいかないわ」

「そういうところだけはしっかりしてるのね、センセ」

「・・・・・・」

ディアッカはクスリと笑うとのんびりした足取りで歩道を歩く。やがて背後から規則正しい寝息が聞こえてきた。

(なんだかオレ・・・迷子を保護した大人って感じ?)

背中から伝わるほのかな熱にディアッカは溜息をついて苦笑した。








**********








───挽き立てのコーヒー豆の匂いがするわ・・・。

ミリアリアはゆっくりと目を開けて周囲を眺めた。

ここ・・・どこだろう。周囲を見渡すも、こんな部屋には覚えがない。黒を基調とした落ち着きのある調度品にクラシックなランプが置かれている。蝋燭の灯りを思わせる優しい照明の中でぽつんとひとりミリアリアは居た。気がつけば自分はベッドに寝かされているのだが、明らかにシングルではない広さに不信感を募らせる。ここはどこなのだろう。何故自分はベッドになんか寝かされているのだろう・・・。
気を引き締めてベッドから身体を起こそうとしたが、その途端に眩暈が生じてそのままパタリと力が抜けた。

「あーあ、無理しないのよミリアリアちゃん。知ってる?アナタサマは38度も熱があるんだぜ?だからこのまま大人しく寝てな」

隣の部屋からコーヒーとミルクを運んできたディアッカは目を細めミリアリアを見つめている。

「おや、どうしたのかなミリアリアちゃんは。ポカーンと口を開けたままでさ?」

「なんで・・・なんであんたがここにいるのよディアッカ!」

寝起きのミリアリアはまだ状況が掴めていない。

「あれ?憶えてないのミリアリアちゃん?」

「・・・憶えてないのって・・・?」

「ここはオレの部屋。で、ミリアリアちゃんは昨夜(ゆうべ)オレの部屋に泊まったの。ここまではOK?」

ベッドの傍らにあるナイトテーブルにコーヒーとミルクを置いてディアッカはミリアリアの額に手を当てた。その途端ミリアリアの頭の中では昨日の出来事が早送りしたビデオテープのように次々と浮かんでくる。
そうだった。自分はストーカーと思しき男達に襲われてあわやというところでディアッカに助けられたのだ。そのことをようやく思い出してミリアリアは俯いてしまった。

「ごめんなさい。迷惑をかけたわ・・・学校にもいかなきゃいけないから今日はこのまま帰るけれど・・・このお礼は後でちゃんとするから今はちょっと勘弁してもらえるかしら」

眩暈はまだ続いている。ディアッカのいうとおり熱もあるに違いない。だがミリアリアは弾みをつけてベッドから起き上がり、持っていた筈のバッグを探そうとして・・・初めて自分の身なりに気がついた。

「・・・え?」

自分の姿に仰天する。
なんとミリアリアは素肌に大きなバスローブを羽織っているだけという・・・あられもない姿だったのだから。

「わたしどうしてこんな・・・」

「ごめんねー。ミリアリアちゃんが着てた服はもう破けてドロドロに汚れててさ、とても着れそうにもなかったから脱がせてみーんな捨てちゃったんだ。あとで新しいの買ってあげるから暫くはオレのバスローブで我慢してね」

クククと方頬だけで笑うディアッカの表情これ以上は無いと思う程に狡猾で、ミリアリアは暫し言葉を失う。

学校には病院のほうから連絡を入れてもらったから心配しなくても大丈夫。路上で倒れてそのまま入院したってことにしてあるからね」

「でも・・・それじゃ誰かが様子を見に来るかも知れないじゃない・・・そうなったら私・・・」

「だから大丈夫だって言ったでしょう?症状が重くてアナタサマは面会謝絶扱いなの。ミリアリアちゃんがオレの部屋にいるなんて誰も気付かないよ」

「・・・どうして」

そう、どうしてそんなことができるのだろう。病院に面会謝絶で入院中だなんていくらなんでも無理がある話だ。

「あれ、ミリアリアちゃんオレに関する資料よく見てないね?オレはこの街っつーか国内でもで有数の大病院の息子なのよ。これぐらいのごまかしなんて軽いもんだし、実際ミリアリアちゃんは安静が必要な身体なんだからここは諦めてオレの言うとおりにしてなさいね」

「でも・・・!」

「昨夜はオヤジの病院から直接ここに女医さんを呼んだんだけどさ?マジでミリアリアちゃん過労で倒れる寸前だったって診断されて本当に入院の手続きも済ませてあるの。でも病院だと誰が来るか分からないし・・・ほら、昨日の怖いお兄サン達にまた来られたら大変でしょ?だから事情を話してここで看ることにしたっつー訳。それにこれでもオレは一応正看護士の資格持ってるからね。問題ないのよ」

「でも生徒の部屋に担任が泊まるなんて・・・これは大問題でしょう!」

大問題どころかスキャンダルもいいところだ。

「だから・・・っつーかあのさ?オレん()の権力ってハンパじゃないのよ?これくらいのことひねり潰すのなんて至極簡単なの!」

ディアッカの言葉にミリアリアはようやく自分の置かれている状況が尋常ではないことを理解した。だが教師としての分別がミリアリアを迷わせる。かといって次の言場も出てこない。

ディアッカはそんなミリアリアをひょいと抱き上げもう一度ベッドに寝かしつけた。

「誤解のないように言っておくけれどさ?ミリアリアちゃんの服を脱がせて身体をきれいにしてくれたのは昨日ここに来た女医さんだし、手当てをしてくれたのもその女医さんだよ。オレは指一本触れちゃいないからその点だけは安心してね。それに今日ミリアリアちゃんの診察に来るときには衣類一式用意してきてくれる筈だからさ?もう大人しく寝ててくれよな」

「だからといって・・・こんな状況が良い訳ないわ!」

「大丈夫だよ。ほら、興奮したからまた熱が上がったと違うか?」

ディアッカは汗を浮かべるミリアリアの額を優しくふき取り氷嚢をのせた。

「本当はあまり注射するのはよくないんだけど、この際だから我慢して」

そう言ってディアッカはミリアリアの細い腕を取り、アルコール綿で拭き上げる。スーッとした感触の後に続く注射針の痛み。
暫しの後、ミリアリアの意識は朦朧とし始め、彼女は静かに瞼を閉じた。実際もう起き上がるのは無理のようだ。
疲れきった身体には睡眠こそが良薬である。

(後の事は・・・後で・・・)

ミリアリアはゆっくりと睡魔に引き込まれ、やがて深い眠りに落ちた。スースーと穏やかな寝息が僅かに聞き取れる。

その様子を眺めていたディアッカはすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながらクククと笑う。そして呟く独り言。

「病人に手を出す趣味はないけど・・・これくらいはいいでしょう?」

ディアッカは意識の無いミリアリアの唇に自らのそれを押し当てて笑う。

「今日はここまでにしておいてあげるよ。でも元気になったらどうなるのか、覚悟だけはしておいてね」

クラシックなデザインのランプの灯を消してディアッカは部屋の扉を閉めた。

そしてまた───夜が静かに訪れるのだ。












  (2007.7.18) 空

  ※ ほら、黒くなって来ましたでしょう?


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