ミリアリアが「アカデミー」に赴任してひと月が過ぎた。
元から優秀な学生を集めた学校である。彼らの多くは自分の将来をきちんと見据えている為、校長がミリアリアに告げたとおり問題を起こすような者はいない。だが、優秀であるが故にスキップ制度を利用して卒業までに必要な単位を既に殆ど取っている者も多かったし、中には必要最低限の出席日数を消化する為に残りの学校生活を充てている者もいる。
例えばディアッカ・エルスマン。
赴任時には彼に逢うことを危惧したミリアリアだが、その心配も他所にディアッカがミリアリアと顔を合わせたのは始業式のみで、以来彼に逢うことは今日まで1度もなかったのだ。






Red piano wire 2







「ディアッカ・エルスマンは今日も欠席?」

ミリアリアは眉を顰めて窓際の空席をじっと見つめた。
その言葉に返事をする者は誰もいない。ただ一様に黙って下を向いている。
小さく溜息をつくとミリアリアは事務的な声で伝達事項を淡々と伝え、静かに教室を後にした。
ショートホームルームの時間以外で彼らに会うことはないミリアリアの仕事は事実上これで終わりとなる。
職員室に戻れば他の教諭は授業の準備に余念が無い。ミリアリアが自分の席に着くと同時に殆どの教諭が足早に職員室を出てゆく風景にも慣れた。

「ふう・・・」

誰もいなくなった職員室でひとり窓から校庭を見やる。
あの日盛りを誇った桜の花も今はすっかり葉桜となり、代わりに藤の蔓が上へ上へと伸びている。花の時期も近いのだろう。
振り返って職員室を眺め回すと、他の教諭の机には漏れなくパソコンが常備されているのにミリアリアの机にだけはそれが無い。
赴任当初は疑問に思っていたが、今ではもうその理由もよく解かる。ミリアリアにはアカデミーに関与する権限を与えられていなかったからだ。
辞令を受ける為に校長室に赴いたあの日、『ハウ先生。新卒の身で担任を受け持つのは何かと不安でしょうがどうぞご心配なさらずに。あなたは私や他の先生方の言葉に素直に従い、実践すればいいだけです。何か疑問に思ったり、納得がいかないことも生じるかと思いますが、見て見ぬフリをすることも時には必要ですよ』と校長に釘を刺されたことを思い出す。
ミリアリアは臨時教師としてアカデミーに招かれたのではなく、ただ事務的に担任の仕事をこなす為だけに採用された者。
アカデミーという最新の設備を施された学校で渡された分厚い資料とパソコンの無い自分の机。つまりは、その分厚い資料以外の事には無関心であれとの暗黙の指示。そして了解。
一昨日だったか校長がとても機嫌よく自分に話しかけてきた。

「ハウ先生。3−Aの出席率が格段と良くなっていますなぁ。まあ殆ど男子生徒で占められていますからねぇ?若い女性が担任だとこうも変わるものですかねぇ」
なるほど、そう言われて他の教諭の顔を思い浮かべれば確かに年配の者ばかりだ。

「若いっていいですなぁ!私も3−Aの生徒になりたいものですって」

校長の脂ぎった視線を思い出してミリアリアの肌は粟立つ。気味が悪い。
ミリアリアは再び校庭に目をやった。育成が難しいと言われている藤がここでは丹念に手入れされているのか実に見事だ。

「やっぱり花は・・・紫なのかな・・・」

ぽつりと呟いた言葉はそのまま宙に浮き引き取り手もないまま風に消えた。



「何見てるのさ・・・」

不意に耳元を掠めた声に弾かれミリアリアは今度こそ全身が総毛立った。
この独特の甘い声を忘れることは難しい。

「ディアッカ・エルスマン・・・」

無意識のうちにミリアリアの口から出た言葉。

「・・・ふうん。フルネームで憶えていてくれたんだ・・・オレの名前」

そう言ってミリアリアの頬に唇を寄せた者はあの「逢う魔が時」に出逢った青年に違いなかった。





**********





「ちゃんと寝てるの?」

ミリアリアの正面に向き直ってディアッカは静かに言った。

「・・・余計なお世話よ。それよりあなたはどうして登校しないの?このままじゃ卒業できないわよ」

ミリアリアはディアッカの顔を見ないよう努めた。この青年は美しい。まともに見返せばまた言葉に詰ってしまいそうになる。
そんなミリアリアの態度にディアッカは軽く笑みを洩らすと、手を伸ばしてミリアリアの顎をついと強く持ち上げた。

「あーあ、いけないねぇ?人と話をする時には相手の顔を見なさいって教わらなかったのミリアリアちゃんは?」

冗談とも本気ともつかない声でディアッカは笑い、ミリアリアの顔を覗き込む。
至近で見る青年の美しさはとても高校生が持つように思えない艶やかさに満ち溢れていた。
豪奢な金髪、小麦色の肌、そして長い睫に縁取られた淡い紫の瞳。それはおそらく多くの民族の血を引くだからだろうと思われた。
ハッと我に返る。気がつけばディアッカの唇がすぐそこにあった。

「教師に向かって何をするのっ!それに先生って呼ぶように注意したでしょう!」

ミリアリアは激しく言い放つとディアッカの手を払い除けた。

「本当に勝気なんだねー貴女様は」

クククと唇の端を歪ませてディアッカはまた笑った。

「こんないい陽気なのに学校に行くなんてつまらないでしょ?せいぜい今を楽しんで秋口になったら登校するよ。出席日数だけ足りていればオレは卒業できるんだし?それよりどぉ?この学校にはもう慣れた?ミリアリアちゃんは先生っつーよりも雑用係として採用されたってことぐらいもう解かっているだろ?」

「ええ。あんたのような不登校生徒を学校に来させるエサとして採用されたことくらい解かってるわよ?でもね?だからといってミリアリアちゃんって呼んで良いなんて誰も言ってないわよ。いい?ちゃんとハウ先生って呼びなさい!」

ミリアリアは息を切らせてディアッカを叱った。だが、ディアッカの顔色を覗えばそんなことはひとつも気にしてはいないことも解かる。

「とにかくミリアリアちゃんのお仕事は極めて順調みたいだから安心だね?でもねぇ?ここの校長には気をつけてね。とんだ狼さんだからミリアリアちゃんのような若くて可愛い赤頭巾ちゃんは食べられないよう注意が必要ってね」

「何よ・・・それ・・・」

「んーとさ?何度もオレに同じコト言わせないでくれる?つまりは校長がアンタに目をつけたんだっつーの!あ?でも愛人になってアカデミーの教諭になるっていう手もあるか・・・。ま、オレにとっちゃどうでもいい話に違いないけどさ。とにかく注意はしてやったんだから後は自分で考えて行動してよねミリアリアちゃん」

「先生って・・・呼びなさいっ!」

「どんな呼び方をされても貴女様はミリアリアちゃんだよ。そこはOK?」

「先生よっ」

「んじゃ、オレはミリアリアちゃんからお礼を頂いて退散するとしましょ」

そう言ったかと思えばディアッカは素早くミリアリアの唇を塞ぐと強引に自分へと引き寄せ、その身体を抱きしめた。
絡め取られた舌の根はミリアリアから言葉と力の両方を奪ってゆく。
急激に狭まる視界の隅でミリアリアはディアッカの紫の瞳を捉えていた。

(藤の花の色だ・・・)

この状況に似合わぬ思いがミリアリアの頭を過ぎる。そして全身から力が抜けたのかミリアリアの身体は急激に重みを増してゆく。
その様子を見て取ったディアッカはミリアリアから身体を離すと傍にあった椅子にそっと彼女を座らせた。

「じゃあね、ごちそうさまミリアリアちゃん」

ディアッカはそう言葉を残してミリアリアの許を立ち去って行った。

まだ朦朧とした頭の中でミリアリアは先生と呼ぶようディアッカに促したが、それは言葉にはならずに乱れた息遣いに飲み込まれる。それよりもふと窓から先程見ていた藤の蔓が目に映った。

花の時期に向けて成長を続ける藤の蔓。

その蔓が次第に自分に向かって伸びてくるような錯覚を覚えてミリアリアは心底恐ろしくなる。

やがて美しく咲くだろう藤の花の色を思いながらミリアリアの意識は遠くなっていく。

その行き先が過去の桜の宵闇の中であるのか、それともこれから咲き枝垂れる藤の花の許なのか・・・。

「逢魔・・・」

どこまでも美しい魔物の声はどこかローレライの歌声を思わせるような魅惑に満ちた声だった。。

















      (2007.6.7) 空

   ※ 第2話目をお届けします。ミリアリアちゃん四面楚歌の状態ですね。
     

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