───いったいどういうつもりなのだろうあの男は!
ミリアリアは頬をぷうっと膨らませ、件の魚屋の前で歩みを止めた。
昨日ディアッカから貰った(というよりも強引に押し付けられた)マグロの切り身は大トロと呼ばれる高級品で、一般の市場に出回ることはとても少なく、多くは高級料理店で扱われるものだとフレイに聞かされミリアリアは複雑な思いでそれを食した。
美味しかった。間違いなく極上の味だった。フレイはラッキーだと思って貰っておけばいいじゃないと軽く流すが、
そんな高価なものをタダで貰うなんて生真面目なミリアリアにはとてもできない。
散々悩んだ挙句、フレイの制止を振り切ってディアッカに切り身の代金を払うことに決めた。
終業のチャイムと同時に会社を飛び出したまではよかったが、今度は魚屋の前で悶々と悩む羽目に陥ってしまった。
マグロの切り身の代金を払う為には店内に入る勇気が必要だし、どう話をきり出せばいいかも判らない。困った。
「・・・どうしよう」
辺りを見回してみても、まだ商店街は人影も疎らで魚屋も客がいないようだ。
もっとも、いつものように店頭にディアッカいてミリアリアを見つけ、大声で呼んだならば途端に決心も崩れたに違いないのでその点では都合よかったにしても、肝心の店員がいなくては話にならない。
だが、運良くそんなミリアリアを店主がみつけて「やぁ、ミリアリアちゃんどうしたの今日は?定刻で上がり?」と、
気安く声をかけてくれた。
「おじさん・・・!」
ミリアリアはここぞとばかりに店主の許へ行き、昨日のマグロの代金を支払らおうとした。だが・・・。
「ああ、昨日のマグロの切り身の代金?ごめんそれはちょっと受けとれねぇなぁ〜」
と、笑顔で断られてしまい、どうしてなのかその理由を店主に問うた。
「う〜んそれなんだけど、ミリアリアちゃんが帰ってから他のお客さんへの手前もあるってんでディアッカの奴なぁ・・・その場で代金を払ったんだよ。その潔さっていうか男に二言は無い!ってな態度にお客さんも大喝采でねぇ?いやぁ昨日の売り上げはハンパじゃなかったんよこれが!うちとしても大儲けだから後でこっそり奴に金を返そうとしたんだが、あいつそれでも受け取らねぇんだ。ケジメはケジメ!って真剣な顔で断固拒否されちゃぁこっちもそれ以上は言えなくてなぁ・・・」
店主は困惑顔のミリアリアを見て、済まなそうに頭を振った。
「それにディアッカの奴は公休だから今日は店にいねぇんだよ。ミリアリアちゃんがどうしてもあいつに返金したいって言うんなら・・・そうだなぁ、この時刻ならオノゴロの港湾公園でボケーッとしている筈だからちょっと行ってみ?
でもって直接あいつに返金してくれればいいよ」
その言葉にミリアリアは冗談じゃないと必死に店主に食い下がるが、店主から「あ、お客さんだからこの話はここまでにしてくれや」とにべもなく断られ、ミリアリアはひとり店前に残されてしまった。
「直接・・・ってどうしろって言うのよぉ〜」
店でとっとと代金を渡して帰ろうと思っていたのに肝心のディアッカは公休で、店主にも代金を受け取ってはもらえないこの状況。
しかし、そこは生真面目なミリアリアである。代金を返さないことにはどうにもならない以上、仕方なくその足をオノゴロの港湾公園へと向けたのであった。
もういちど、貴女様と一緒に海を眺めたいと思いますオレ 後編
───どうしたのミリアリアちゃん。今日は散歩?
オノゴロの港湾公園の高台から声をかけられ、ミリアリアはギョっとして上を仰ぎ見た。
高台にはディアッカがひとり楽しそうにフェンスにもたれ頬杖をついて笑っている。
「・・・あんた」
それ以上の言葉も浮かばず、ミリアリアはじっと頭上の声の主の顔を睨みつける。
「やだなーおっかねぇの!ねぇミリアリアちゃんってば。せっかくの可愛い顔がもう台無し〜!」
クククと片頬を上げて笑うその仕草は間違いなくあのディアッカ独特のものだ。
その軽い態度にムッとしたミリアリアは一瞥をくれると、
「・・・ちょうどよかったわ。あんたのこと探していたのよ。ちょっとそこから下りてきてよ」
と、これまたきつい命令調でディアッカに下りてくるよう促したのだが、
「あのねぇ?人に用事があるんなら自分のほうから来るべきでしょう?」
というもっともなディアッカの言葉を聞いて、「解ったわよ」としぶしぶ高台へと上っていく。
「おいおい!そっからじゃ無理だって!少し行くと石段があるからそっちから来いよ」
ディアッカは慌ててミリアリアを制止するが、ミリアリアは無視してその場から上によじ登る。
高台といってもミリアリアの立ち位置からでは2、3分の距離なので、この方が手っ取り早いと思ったのだ。
だが、踵の高い靴を履いているミリアリはあと数歩という高さのところで上れなくなり、そのままその場で動けなくなってしまった。
「・・・ほらみろ・・・言わんこっちゃない。こんな所ヒールでなんか登るなよなぁ・・・」
苦笑いをしてディアッカはフェンスの外に身を移すと、右手をミリアリアに向けて差し出した。ちょっと癪に障ったが、ミリアリアは仕方なくディアッカの手を掴んだところで今度は強引に持ち上げられる。
(きゃっ・・・)
声を上げる間も無くミリアリアはディアッカの前に立たされる格好となり、
「近くで見ると可愛いらしさ倍増だね?ミリアリアちゃんは」と、嬉しそうに声を上げるディアッカをミリアリア自身もまた至近距離で見つめ、今度は本当に言葉を失う。
(・・・・・・)
目の前に立つ男の美しさはどうだろう。
遠目からでも充分豪奢な容貌の男だとは判っていた。しかし、こうして手の届く距離で見る男は想像を絶する程に綺麗だった。
「どうしたの?そんなにじっと見つめちゃってさ?オレの顔に何か付いてる?」
いつになく優しいディアッカの声にミリアリアは我に返り、気まずさを隠すように「目と鼻と口」なんて間抜けな返答をして頭を垂れた。
「あー、人と話をするときはちゃんと顔を見て話しなさいってお母さんに言われなかった?そんな態度じゃ話なんて出来ないだろ?」
そう言いながらディアッカはミリアリアの顎についと手を伸ばして上を向かせた。
「オレに何か用でもあるの?ずい分真剣な顔してたけどさ?」
艶然と微笑むディアッカは明らかにこの状況を楽しんでいる。
ミリアリアは自分の顎に触れているディアッカの指をパシリと叩き落してそっぽを向きながら、
「きのうのマグロの代金を払いにきただけだからさっさと渡して帰りたいのよ」
と、バッグの中から財布を出して札を数枚抜き取ると、おもむろにディアッカに差し出した。
「はぁ〜?マグロの金なんかいらねぇって言ったじゃんよオレ。今更貰うつもりもねぇし?」
「・・・あんたからタダで貰うのが嫌なだけよ!とっとと受け取ってくれない?早くしないと日が暮れちゃうから」
「そお?」
ディアッカはミリアリアが差し出した札の枚数を数えながらクククと笑った。
「う〜ん、でもこれじゃ足りないなミリアリアちゃん」
「え・・・?」
「これじゃ足りないっつーの。いったいいくらすると思ってんのアレ」
「そんなに・・・高いものなの?」
先程まで激昂していたミリアリアの顔から血の気が引いた。赤くなったり青くなったりまるで信号機みたいに。
「うん。すっげー高いのよぉ〜!」
ミリアリアの表情があまりにもくるくると変化する様に、笑いを堪えきれなくなったディアッカの頬がつい緩む。
「どーしても払ってくれるっつーならさ?足りない分はここにチュッでも構わないよ〜」
そう言ってディアッカは自らの唇を指した。
「じょ、冗談じゃないわっ!そんなことするくらいなら・・・」
ミリアリアは再びディアッカを睨みつけると、持っていたバッグを力いっぱいディアッカ目掛けて投げつけた。
バッグはディアッカの肩に当たり、ポスンという音をたてて地面に落ちた。
「ってぇなぁ・・・」
だが、そのディアッカの言葉も終わらぬうちにミリアリアは踵を返して走り出した。
「お〜い!ちょっと待てよ!」
ディアッカは慌ててミリアリアを追おうとしたが、
(ククク・・・)
ある考えが閃いて動きを止めた。
フェンスから下を見下ろせば、先を急ぐミリアリアの姿が夕日に照らされ徐々に小さくなってゆく。
「おっかねぇの」
目を細くしてミリアリアの後ろ姿を見送りながら、ディアッカは過ぎた日々に思いを馳せる。
いつの頃だっただろうか───。
魚屋に勤め始めてからまだ日も浅いある日、新米見習い中のディアッカは、店先を楽しそうに歩いていく少女を見つけた。
横には品の良い緑色の瞳の青年がこれまた楽しそうに少女に寄り添う。俗に言う恋人同士なのだろう。
男女とも、特に秀でて綺麗ではないが、こぼれるような笑顔が印象的で、ディアッカはふと、自分の心も温かくなってゆく感覚を覚えた。
毎日毎日決まった時間にふたりの姿は魚屋の前を通り過ぎ、その都度ディアッカは溜息混じりでふたりの後姿を静かに見送る。
少女はいつも笑顔を絶やさず、青年もまたそれに倣った。どこから見てもお似合いのカップルなのがディアッカとって癪でもあった。
「なんだいディアッカ、おまえあの女の子に興味があるのか?」
ある日、いつものようにふたりの姿を眺めていると、出し抜けに親方から声をかけられ、ディアッカはドキリとしながらも、持ち前のポーカーフェイスでやり過ごした。
「いやぁ、今どきヤケに純なカップルだと思ったんスよ。なんつーかその、爽やかっつーか・・・」
それを聞き、親方はニンマリと笑いながらふたりについて話し始めた。
「あの女の子はミリアリアちゃんっていうんだよ。俺の釣り仲間の娘さんでな、歳は・・・おまえよりひとつ下だったっけか?この先の出版社で働いてんだよ」
「・・・へぇ・・・」
「隣のあんちゃんは確か同じ会社の同僚で・・・トールとか何とかっつー名前だったと思ったんだが・・・」
「そうなんスか?まぁ仲が良いってーのはいいことっスよ」
ディアッカはそこで言葉を切ると、また何事も無かったかのように働き始めた。
彼女にするなら可愛くて笑顔の似合う、あんな感じの女の子がいいよな・・・。
少し寂しさを胸に残し、その後もディアッカはふたりの姿を見送り続けた。
だが、ある日を境にふたりの姿を見かけなくなり、ディアッカは密かに心配になった。
やがて一週間も過ぎた頃、ミリアリアは再び商店街に姿を見せるがどういう訳か、いつも一緒だった男はそこに居なかった。
それと同時にミリアリアから笑顔が消えた。ひとり寂しげに歩く後姿が妙に痛々しくて、以来ディアッカの目はただミリアリアを追い続ける。
(どうしたんだろう・・・)
一抹の不安を胸に抱え、店頭で作業をしていたある日、親方が大きく息を吐いてディアッカの肩をポンと叩いた。
「ミリアリアちゃん・・・最近元気なかっただろう?あの子の親父さんに聞いたんだが、半月前に彼氏が事故で死んじまったんだとさ。それもあの子の目の前なんだっつー話でなぁ・・・可哀そうになぁ」
そう言って目の前を通り過ぎてゆくミリアリアに親方は憐憫の眼差しを向けた。
「・・・・・・」
恋人が死んで気落ちしている・・・その気持ちは充分解る。しかし、虚ろな目で商店街をとぼとぼと歩くミリアリアをディアッカはそのままにしておくことができなかった。
「ねぇミリアリアちゃーん!秋刀魚の美味しいのがあるよーっ!今晩のおかずにどぉ?」
往来の視線が気になったが、ディアッカは声を大にしてミリアリアに言葉をかけてみた。
最初は冷たい反応しか返ってこなかったものの、いつしか声をかける度にミリアリアの態度が変わっていった。
「うるさいわねぇっ!ミリアリアミリアリアってひとの名前連呼なんかしないでよ!」
「用がないなら呼ばないでくれない?」
などとつれないながらも威勢のいい声が返ってくるようになった。
ディアッカは思った。あんな生気の無いミリアリアの姿よりはこっちのほうが数段マシだ。
以来ディアッカがミリアリアに声をかけるのは商店街の名物となって現在に至る。
さて、当のミリアリアはそんなことなどまったく知らない。
でも今はそれでいい。
ディアッカはミリアリアが投げて寄こしたバッグを拾い上げてパンパンと埃を払って微笑む。
「さーて!このバッグどうしようかねぇ・・・」
頭に血が上りきって冷静さを欠いたミリアリアの行動はディアッカに次のステップを踏む隙を与えた。
落ち着きを取り戻した彼女はやがて気付くだろう。バッグの中には何が入っていて、それが無いとどうなるかということに。現に今バッグの中からは携帯電話の着信音が響いている。人のバッグを勝手に開けることはできないからそのままにしておくとして・・・。
ディアッカはひとりほくそ笑む。
マグロの代金はともかく、バッグの中身はミリアリアの必需品。
───今度逢うときはまた、一緒に海を眺めたいもんだね・・・。
間もなく日没になる。
ディアッカはミリアリアの後姿を思い出しながらさも愉快そうにクスリと笑った。
(2008.11.7) 空
※ ようやく後編をお届けします。実はこの設定が美味しすぎて連載ものへと画策中(笑)
それくらい裏設定を細かく作ってしまいました。
しばしお時間をいただきますが、いずれ連載ものにしたいと思っておりますのでよかったら待っていて下さいませ。