朝起きる時は「今日も会えないだろう」と思い、 寝る時には「今日も会えなかった」と思うのです。
長い長い毎日に、幸福な時は片時もありません。
全ては物足りなさ、全ては後悔、全ては絶望です。

『危険な関係』 ラクロ

角の擦れた写真

 

軽快な音を立て、また一枚プリンターから勢いよく紙片が吐き出された。
机下へ落ちそうになったところを咄嗟に受け止める。 傾いた体を椅子へと戻し、ミリアリアは手にした写真を机に置いた数枚の上へと丁寧に重ねた。

お世辞にも綺麗とはいえないモーテルの一室。 中央が凹んだくたびれたマットレスの置かれたベッドとミリアリアが座っている硬い椅子、そして机代わりの古ぼけた棚。 今にも消えそうな電灯が黄色い光を投げかける薄暗い部屋は、たったこれだけの家具があるだけなのに、息苦しさを感じるほど狭い。
唯一満足できるのは、シャワーの湯が十分に熱いことだけ。
「でも、ベッドで寝られるだけ今日はマシね」
あまり清潔そうに見えないシーツを見遣り、ミリアリアは諦めたように肩を落とした。

C.E.最大と称されたプラントと地球連合との戦争が終結を迎え、一年半が経った。
世界は平和に向って進んでいるはずなのに、物騒な噂と小競り合いは一向に減る気配がない。 寧ろこの数ヶ月は増加傾向にあるといってもいいだろう。
そんな不穏な空気に満ち溢れる地域を渡り歩き、時には緊迫した場所へ赴き、取材という名の自殺行為――これは遠慮のない女友達の言葉だ――をするのがミリアリアの今の仕事だ。
現に昨日まで砲弾が飛び交い、噴煙が立ち込める戦場に身を置いていた。
印刷された数枚の紙片を爪繰れば、暗褐色の殺伐たる風景が現れる。 次の写真も、そのまた次の写真も。
それは暗澹たる未来を予見しているようで気が重くなる。 知らず深い溜息をついていたミリアリアは、ガ、シャッと引っ掛かりを残して吐き出された最後の紙を無意識に受け止め、物憂げに目を向けた。

―――その瞬間、息が止まった。

いや、心臓でさえも鼓動を止めたかもしれない。
数センチ角の紙片を掴んだ左手が自分でもわかるくらい大きく震えた。

紫雲に染まる空と、それを映した紺青の海。
黒々とした海原の一端から覗く朝日が並ぶ波頭を金色に染めている。 そんな一瞬が其処にあった。

一体何が動揺を誘ったのだろう? 此処に写っているのは、夜明け前の暗い海と少し顔を覗かせた太陽だけではないか。
そう、これは確かに自分で撮った写真。 何処で写したものか、場所も時間も覚えている。
一晩中続いた砲撃と爆撃の応酬に神経をすり減らし、ようやく明けた朝に思わずカメラを向けた。 たったそれだけのこと。
あの時は、生きながらえ翌朝を迎えられた喜びしか頭になく、何を写しているのか特に意識などしていなかった。
「………そうよ、別に驚くような写真じゃないわ」
自分を納得させる為に呟いた言葉は、澱んだ空気に絡め捕られて所在無く宙に浮いた。

夢遊病者のようにふらりと椅子から立ち上がり、覚束ない足取りで数歩分しか離れていないベッドに近付くと、その重さで半分ベッドに沈み込んだ黒いバッグを引き寄せた。
バッグにきっちり収まるカメラを除けて、探ったのは底板の下。 感覚の鋭くなった指先が望んだものを探し当てると、傷付けないよう慎重に取り出した。

それは皺くちゃな細いリボンで纏められた数十枚の写真。
仕事の合間に撮った風景や人物の写真の中でも、特にミリアリアが気に入っている選りすぐりのもの。
しかしバッグの一番奥底というのは保管場所としては適していなかったのだろう、その多くは角が擦れて丸くなっている。
ひも状と化したリボンの硬い結び目をやっとのことで解きほぐし、ベッドの上に一枚一枚並べていく。
広げた紙片を凝視したミリアリアは、自分を動揺させたものがなんであるかを知った。

ベッドを覆い隠す数々の写真の印象を一言で言うならば、それは『紫と金』。
早春の夕空にぽっかりと浮いた梅紫色の雲。 夏の午後に子供達が掛け合った水飛沫は、眩しい太陽を反射した黄金色。
ミリアリアが心のままに撮った写真は、必ずこの二つの色を含んでいた。

少しくすんだ金色の髪と深い紫水晶の色の瞳を持つコーディネイターの元恋人。
ミリアリアが選んだ仕事を酷評した彼と喧嘩したのは昨年の初夏のこと。 意地を張り、謝罪も懇願も受け付けず、気付けば声すら聞かなくなって一年近くが過ぎ去った。
恋人と呼ばれた月日より、元恋人と名乗る日々の方がずっと長い。 きっと彼はこんな意地っ張りな女のことなど、呆れてとうに忘れてしまっただろう。
自ら言い出した別離なのに、まるで心の奥底に押し隠した想いを何時も何処かに捜しているような証拠に気付いた今、後悔することしか出来ない自分に何ができるというのだろう。 此処地球と、彼のいるプラントはあまりにも遠すぎる。

電源の入ったままだった棚の上の携帯端末が、ミリアリアの気をひくように点滅した。
何気なく開いた画面に、元気よく一つのアラームメッセージが現れる。

『3月29日 誕生日』

振り返ったベッドの上、彼の色を載せた写真がぼやけて見えた。

fin.

 

25/Mar/2010 PiD